札幌の記憶
2015年 05月 22日
札幌市北区。北24条の飲屋街があるこの街で生まれ育つこと30年余年。かつてその街には飛行場がありました。
北24条飲屋街から西へ、歩いて5分程の位置に、それは唐突にあります。
80年以上の年月を重ね、今尚歴史を語り継ぐ、
『札幌飛行場正門跡地』
《歴史》*Wikipediaより
1926年(大正15年)8月 - 北海タイムス社が事業部に航空班を設立する[4]。
1927年(昭和2年) - 北海タイムス社が市有地に6.6haの飛行場を造成する[4]。
1933年(昭和8年)
3月 - 逓信省が53haに拡張を決める[4]。
8月 - 逓信省が航空局を設立する[4]。
1936年(昭和11年)
9月 - 飛行場が整備され、航空局札幌飛行場事務所が設置される[4]。
10月8日[5] - 陸軍特別大演習の観兵式(陸軍兵25,000人参加)が開かれる[1]。
1937年(昭和12年)
2月 - 公共飛行場に指定される[4]。
4月 - 日本航空輸送によって、札幌 - 東京間の定期航路が運営される。所要時間は仙台経由で5時間10分[4]。
1938年(昭和13年) - 丸井今井の屋上に航空灯台が設置される[4]。
1939年(昭和14年) - 事業者が国策会社の大日本航空輸送となる[4]。
1940年(昭和15年) - 企業による航空事業は停止され、軍用飛行場となる[4]。
1944年(昭和19年)8月 - それまでの草を刈って整地しただけの滑走路から、板敷滑走路に変わる[4]。
1945年(昭和20年)
8月 - 市民を動員して100haへの拡張工事が行われるものの、太平洋戦争の終結とともに中止される[4]。
10月26日 - 進駐軍の軍需機材処理部隊によって、26機の航空機もろとも火炎放射器で焼き尽くされる[4]。
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1927年から1945年までの20年弱の間しかありませんでしたが、当時の北海道では東京への定期航空路として唯一の飛行場として大変重宝されていたことでしょう。
しかし終戦後の10月26日、26機の航空機もろとも火炎放射器で焼き尽くされるという悲劇の終わりを遂げるのでした。
私がこの地に生を受けたのは、それから34年と1日後のことでした。
今となっては住宅密集地で、かつて飛行場があったなどとは到底伺い知ることはできませんが、
滑走路はこの北区役所から北西に延びていたそうです。
そして、ここよりもう少し北に向かった所に、東西に続く長い緑地公園があるのですが、そこがかつての暴風緑地帯だったそうです。
今まで通っていた道、遊んだ場所のかつての姿を知ると、とても感慨深いものがあります。
自分が生まれ育った土地の歴史を知ることは、ひいては自分の存在意義にも繋がり、生きていく意味を考えるきっかけになります。
目の前に広がる場所の歴史を知った時に感じる、言い知れぬ高揚感の正体は、きっと『生きることへの勇気』なのかもしれません。
これからも、こういったその土地土地の歴史を知っていくことに、貪欲になっていこうと考える今日この頃でした。
by tm144en
| 2015-05-22 07:04
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